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おたくの書斎です 綺麗な話も汚い話も

はじめて読んだよ『書籍の解体とフラグメント・コンテンツ、氾濫するアメーバ・センテンスや、クリエイターのアイデンティティーと過ぎ去りし書店員の憂鬱、およびキュレーションの価値とホット化したメディアについての詩』なんて厨二感満載のポエムは

らした先生のエントリで本書を知ったとき,ものの数秒で購入ボタンを押しました。

rashita.net

タイトルが衝撃的です。あふれる厨二感です。

ちょっと言葉が悪くて恐縮ですが,なにを言ってるかわからないし,本当はなにも言っていない気もします。いわゆる厨二病な,難しい言葉を並べただけの,オシャレな雰囲気だけの,絵のない額縁のようなものなんじゃないかとすら思ってしまいます。

でも,読めばわかりますけど,中身のある厨二病です。これがまた厄介です。これを,日本でほかに誰が書けるのか。武器を持った厨二病がどこにいるのか。

らした先生の面白さは「厨二病時代にわたしたちがやってしまう黒歴史を,『強くてニューゲーム状態』でやってくれる」ということだと感じています。大人の思考力と理性なのに厨二病状態の発想を保っているということです。

発想だけが暴走してあらゆる技術が未熟だったわたしたちが,発想を表現するために技術を学びはじめ,いつしか技術の追求こそすれど発想がなくなってしまう。あんなに表現したかったなにかが,表現の方法を得れば得るほど,「あれ」が何であったか,思い出せなくなってしまう。

らした先生はいつも「あれ」を書いている気がします。

たとえば,『ドラッカーに学ぶブログマネジメント』も読みました。WRMエッセイ系も読みました。どちらも間違いなく面白い。

ドラッカーに学ぶブログ・マネジメント

ドラッカーに学ぶブログ・マネジメント

「面白いだけ」じゃないんです。

なんでドラッカーのマネジメントからブログマネジメントを学ぼうとか言い出すんですか? 戦術ゲームで得たノウハウを,小学校のわくわくタイムでやる遊びに試しちゃう心理ですか?

これ,誰もが一度はやってますからね。

仕事に『マネジメント』応用しようって張り切って,ちょっと試行錯誤して,ひとによってはその経過をノート十数ページくらい書いてますからね。それで,誰もが突き詰める前に飽きて,「ま,そろそろいいか。それより今度は『アドラー心理学』を……」とやりだしてますからね。

もうこの安直さ。安直すぎて,「ああ,あるある。そういうのね。知ってる。やったことある」と言い切ってしまって,知っていることにしてしまって,そのせいで何も知らないでいるテーマ。誰にも語られていないのに,語られてしまったことになっているテーマ。みんなに知られているのに,誰からも忘れ去られたテーマ。

そういうテーマについて,らした先生はちょいちょい書いてくる。

だからいつも懐かしい気持ちになる。敗北した気持ちで読んでしまう。勝利を奪還すべく,日常生活のふとしたとき,読んだことを活かして頑張ってしまう。個人がエンパワーメントされてしまう。

らした先生は,こういう男なんですよ。

世界でただひとりわたし,というポエム。世界のすべてのひとが,というポエム。

「わたしの身の回りの誰もが,この本の本当の魅力を分からないだろう。この世界でわたしだけが,たしかにこの本の魅力を理解しているのだ」

読んでいてこう感じました。

この短い本を最後まで読むごくわずかな人々,「面白い」という2人か3人,でもきっと,その2人のいう「面白い」だって的外れなんです。

この詩の本当の素晴らしさを理解しているのは,この世界にわたししかいない。

誰も,この詩の素晴らしさを理解できない。

どれだけ恐ろしい詩か,わかっていない。「なんだかカッコイイね」などと表面的なことをいう。そうじゃない。この詩が素晴らしいのは言葉のチョイスじゃない。「読者層のITリテラシーにマッチしてる」とか,そういうエセ評論家みたいなことがいいたいんじゃない。「現代への風刺だ」。その通りだけど,読みが浅い。みんな浅い。いかにも理解したふうなことを言っているひとたちだって,きっとわたしのような衝撃はなかったはずだ。かれらは言葉遊びをしているだけ。

この詩は世界を描いている。

SF小説っぽいことを,ディストピアっぽいことを,フィクションめいたことを言いながら,ちゃんと「〈いま-ここ〉にわたしたちが生きている世界」を描いている。わたしたちがサービスの便利さを喜んでいる裏で,ジワジワと,認識の在り方が変わっている。「情報革命」という言葉が陳腐になって,誰もが「そんなの常識じゃん」という。でもそれがどこまで常識なのか,わたしたちはいつも忘れてしまう。

この怖さ──情報化による怖さ。ネットワーク化による怖さ。これらの変化によって,わたしたちが〈是〉としてきたものが,〈是〉といいきれなくなる怖さ。正義がゆらぐ怖さ。この怖さが書かれているのだと,みんなが理解していない。理解してる風なことを言っている人々も,ほんとうのところ,わかっていない。

世界中でわたしだけが,このことを理解している。

だからこれはわたしだけの詩だ。

──そう思わせる詩なんですよ。

まさにポエム。

惡の華(1) (週刊少年マガジンコミックス)

惡の華(1) (週刊少年マガジンコミックス)

同時に,冷静な自分が言います。

「とはいえ,わたしと同じように『この世界でわたしだけが──』と考えているひとが存外いることだろう。読者は多く,共感者で溢れているだろう。『わたしだけが』という人たちだらけだろう。それどころか,この本をありふれた本のひとつとして捉える人々だっているだろう」

まさにポエム。

詩のもつ普遍性といってもいい。ポエムの持つ「ありふれ感」といってもいい。

そういうものがあります。

Algorithm Creator

そしてきっと,らした先生は,わたしみたいな感想を持つ読者を想定しているでしょう。わたしの感動は,らした先生のさじ加減によって生み出された作り物であって,わたしの抱いた感想もまた,らした先生の創りだした巨大な〈刺激-反応〉ルールの具体化にすぎない。アルゴリズムの実行時における電気刺激が生み出した〈夢〉のようなものかもしれない。

アルゴリズムは、我々であり。

我々は、アルゴリズムである。

『書籍の解体とフラグメント・コンテンツ、氾濫するアメーバ・センテンスや、クリエイターのアイデンティティーと過ぎ去りし書店員の憂鬱、およびキュレーションの価値とホット化したメディアについての詩』より「私たちとアルゴリズム

だから,らした先生。わたしは思うのです。

きっと,巨大な gNet が世界の情報のすべてをつないだとき,クリエイターをキュレーターと区別できるとすれば,それは〈刺激-反応〉ルールを利用する者ではなく,〈刺激-反応〉ルールそれ自体を創造する者であると。途方も無く精緻なアルゴリズムを前にして,どれだけ小さなものであっても,新たなアルゴリズムを書き足せる者であると。

らした先生がそのひとりであると。あるはわたしもまた──。

The other side:

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