岡八重吉.com

おたくの書斎です 綺麗な話も汚い話も

わたしの愛するひとたちから愛されなくても,わたしは愛するものについて書きたい

わたしは(いわゆる広義の)知的生産な話題が大好きです。

高校時代・大学時代には勉強法系の書籍を多く読みましたし,ノート術系の本や考え方系の本も読みました。もちろんいまも読んでいます。ブログも10代から書いてきたし,Evernote も Workflowy も kindle も使います。これらの使用法についてのブログを喜んで読みます。小説論もブログ論も大好きです。

「考える」という動作が好きです。

ほかのひとの「考える」という動作がどんなものなのか気になります。そこにひとのこころの内が見えるような気がします。ひとの秘密があるような気がします。わたしは「ぎゃはは」という喧騒のなかにではなく,静かなところでこっそり聞かされる言葉に惹かれます。

こうした外形だけ見れば,わたしは立派な知的生産フリークなはずですね。

「知的生産」というジャンルの本やブログはそれなりに人気があり,すくなくとも一生かかっても読み切れないほどのコンテンツがこの世にはあります。それはつまり,ほかのひとにとっても興味のあることであり,しかも,「わざわざ書きたい」ほどのことなんだと思います。

だけど,わたしはこれらについて書きたいことがありません。

考えてみれば,映画好きがみんな映画を撮るわけじゃない。ソムリエがみんな酒蔵をはじめるわけじゃない。だけどわたしはなぜか,「知的生産な話題が大好きなんだから,知的生産について書かなきゃ」と思ってきました。

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わたしは倉下忠憲さんや彩郎さんといったニッチでホットなひとたちを恋い焦がれた目で見ています。かれらの書いたものを興奮気味に読んでいます。たぶん,わたしは「かれらに読まれるものを書きたい」と思っているんでしょう。「わたしもこんなことを考えているんです(だから,お願いわたしを見て!)」

でもわたしはこれらについて書かない。

わたしが書けるのは,人生にとって有限で貴重な時間を使ってでも書きたいのは,徹頭徹尾「わたし自身」についてです。

わたしは自分語りを超えた話題をみずから文章化することに “強い興味” は無い。没頭はできない。このことを知ったのは本当につい最近で,わたしが「岡八重吉」というハンドルネームを作って,ここぞと知的生産ネタを書くぞと決めてからでした。

わたしは自分が好きなひとびとの好きなテーマを書きたくありません。それどころか書きたいのは眉をしかめられるようなテーマです。

大好きなひとに声をかけたい。大好きだって伝えたい。でも,インターネット上である以上,わたしの存在を知られることは,ネット上にアーカイブされたわたし(というアカウントたる分人)の全情報についてアクセスできるという意味です。

ほとんどの場合,こうした悩みは杞憂に終わります。そしてわたしは杞憂に終わることを知っています。しかし知っているだけでは足りないのです。なにか強い “宣言” めいたものを自分自身にやってやることが必要です。

さて,いよいよ結論が見えてきました。

わたしが採った “宣言” という方法について,次のエントリでお話しようとおもいます。

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蛇足 ── きっとらした先生が苦笑してしまうような

わたしは倉下忠憲さん(らした先生)のことが大好きなのに,らした先生からは苦わらいされてしまうようなことばかり書きたくなってしまいます。

わたしはらした先生が大好きです。らした先生は「現代最強のオタクのひとり」だと思っています。彼ほど,「オタク少年の無邪気な発想」と「発想を組み立て昇華する技術」をバランス良く持ちあわせたひとはほかにいません──いるかもしれませんが,とても少ないです。

※ このへんの話は,過去にエントリにしたことがあります。

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発想法は「巨大な迷路を自由帳に書く理論」の延長線上にあります。文具偏愛は「バトル鉛筆」の延長線上にあります。ポエミーな短編やSFチックな寓話は「暗黒のノート」の延長線上にあります。

らした先生は,厨二病的な,独りよがりでドス黒い承認欲求を,爽やかでクスッと笑えるものへと練り上げます。だからどこか既視感があり,懐かしさがあり,なにより「ちゃんと面白い」んです。

端的に言って,「ひとから承認されなかったはずのコンテンツの芽」を「ひとから承認されるコンテンツ」として,表現できるのです(と,言葉で書いてみてわかりましたけど,これって文学者がやっていることなのかもしれませんね)。

でも,わたしにはきっと,これはできない。

わたしは「ひとから承認されるコンテンツ」まで昇華できない。だけど,書きたい「ひとから承認されないコンテンツ」がある。だからわたしはせめて,デリバリ(文体)を整え,誠意を見せようと思います。わたしにとっての切実さを伝えます。

「きみの言いたいことはまったく分からないし,分かったとしても決して賛成できない。だけどなにか,きみにとってはそれがとても大切なもので,それはぼくが尊重したいと思えるものだってことは分かった」

── こう答えてくれる誰かが現れたときこそ,きっとわたしの願いが叶ったときなんだと思います。