岡八重吉.com

おたくの書斎です 綺麗な話も汚い話も

むかし「読書が趣味」とアホ面でいえた時期があった。そしてもういちど。

まとまった文章をブログとして書くひとって,むかしは本が好きな大人しい子供だったんじゃないかと思うんです。いまは社交術を身につけてきらびやかに振る舞うひとも,ひっそりとたたずむひともです。わたしも読書と作文の好きな大人しい子供でした。よくいる「本や漫画の好きな内気な子」でした。

なぜか,読書はいつも「わけわかんねえ」との戦いでした。なにかが分かるようになると,分からないものに進む。中学生の頃に夏目漱石だの遠藤周作だのを得意げに読んだときにはじまり,高校生のころは大学入試用の論説文,大学に入って新書,さらに有名な(倫理の教科書に載っているような)本も読むようになる。「わかるもの」は増えているはずなのに,いつも「わからん,わからん」と感じていました。また,その苦しみを無邪気に楽しんでいましたし,アホ面して「読書が趣味」といっていました。

それで,就活を期に趣味をやめて何かモーレツな男になろうとして,その後モーレツはやめて(わたしには向いてなかった),そのまま趣味を取り戻すのをずっと忘れていました。

むかしはアホ面して「読書が趣味」とかいってたんだし,もう一回やってみたい!

「Input/Edit/Output」のサイクルを緩く回していくのが月並だけどいちばん楽しいオタク読書生活に違いない

肩のこるいいかたになりますが,オタク読書生活を中心に「Input/Edit/Output」のサイクルを回そうというのがいまの目論見です。

「Input/Output」というフレーム自体は,いかにもマッチョな自己啓発書っぽいものですし,そこに「Edit」を加えれば知的生産のものです。これをオタク活動に緩やかに活かしていきたい。

われわれオタクは「何かを見て/読んで」「執拗に考えて」「暑苦しく意見する」という三段階の楽しみかたをしますけど,これって「Input/Edit/Output」のサイクルそのものなんですよ。たぶんこのサイクルは本能的に楽しいんだと思います。

ムダに高尚なものとして崇められている知的生産やライフハックを,卑賤なオタク読書生活でやってやりますよ!

「Input」。人間だもの。普通の本だって読む。プラトンも読む。エロ漫画も読む。どれかを黙殺すれば嘘になる。リアルは優しい嘘で満ち,真実は匿名の名のもとで光る。

やっぱり「Input」となると「読む」です。いま読んでいるものや読みたいものはけっこういろいろある。そしてせっかく匿名なわけだし,わたしを巡る「読む」ことについては全部ブログに入れてみます。

いきなりイヤらしい話をしますけど,わたしはエロ漫画を読みます。エロ漫画は強烈にわたしの感情を揺さぶってきますし(エロ動画よりも断然エロ漫画派です),そこには思想のようなものすら感じます。

そしてもう少しソフトなところをいけば,『ナナとカオル』(甘詰留太著)や『すんドめ』(岡田和人著)といった微妙にエロイ漫画も好きです。さらにソフトなところではいわゆる「サブカル」みたいな漫画も読みますし,週刊少年誌も読む。

ここから今度は堅くしていくと,ライトノベルも読むし娯楽小説もSFも読む。円城塔村上春樹も読む。倉下忠憲も内田樹岩波新書もマイケルサンデルもプラトンも読む。

これらは普通,別ジャンルのものたちとして,別なひとが,別なブログで書いていますよね。でもわたしはおなじひとりの人間が,おなじ感性でもって,「面白いよー」と感じているんです。だったら,いっそ「キレイなもの」から「キタナイもの」まで,とにかく「読む」ものならおなじブログでやってみる。円城塔を好きなひとがどんなエロが好きなのか,気になりませんか? 村上春樹を好きなひとはやっぱりフェラチオが好きなのか,気になりませんかね? わたしはすごく気になる。だから,匿名性を利用して,ぜんぶ書いてしまいたい。リアルではぜったいにできないことです。

「読む」ことと「書く」ことの間には確固として「Edit」が存在する。しかし何を「編集する」んだろうか?「わたしが編集される」のではないか?

「入力された情報を『編集』して,出力する」という知的生産のフレームがあります。

いやしかし,はたして「編集する」のは「読んだ情報」なんでしょうか。そうではなくて,「わたし自身が編集されている」のではないでしょうか。個人的には後者です。前者もあり得るのでしょうけど,わたしは入力された情報に付加価値を与えて出力する,というプロセスにあまり魅力を感じません。それよりも入力された情報によってわたしが編集されるほうがいい。わたしをメチャクチャにしてほしい。

だから,これからブログを書いてみようとかいってますが,ライフハック勢のような意味での「情報のシェア」といったものはほとんど書けません。そういうものはそれが得意なひとがすでにいっぱいいます。そうではなくて,本を肴に,あくまで自分語りをやっていきたいです。

知の編集術 (講談社現代新書)

知の編集術 (講談社現代新書)

「Output」としてブログ書く。読みたいんじゃない。書きたいんだ。分かるひとよ,分かってくれ。わたしはそれで十分だ。

わたしの趣向はブッチぎりで「書く」に振られています。ほかはからきしダメ。正直なところ,趣味だ趣味だといってる「読む」ことすら苦手です。わたしは苦難の多い人生を「読む」力によってなんとか生き延びていますけど,もしわたしにそこそこ「読む」力があるとすれば,それは読みながら「書く」力なんですね。「書く」ことを「読む」プロセスに組み込むことで戦ってきました。

だからね,メディアマーカーとか読書メーターみたいなサービスは,わたしの需要と違うんです。わたしは読書家になりたいわけじゃない。読んだ本の数に興味はない。それよりも,わたしを強烈に揺さぶってくれる本に出会って,「うわあー」って驚きたい,その驚きの過程を言語化したい。そのためには前提としての読書が必要ですけど,それは手段にすぎません。だからブログしかないんですよ(本以外にも書きたいネタがあるからでもある)。

そして成人した日本男子たるもの,なにかひとつくらい志を持ちたいものです。せっかくなのでひとつ,「共感」というテーマを加えます。たとえば面白かった本のエントリなら,読ませる。「ぼくはわたしはこう考える」エントリなら,「わかる,自分もそう考えていた」と感じさせる。おなじことを考えているひとたちに先立って,すこしでも言語化を進める。

「読書が好きな内向的な子」は,学校にあんまりいませんでした。だからわたしは寂しかった。自分とおなじものが好きなひとも少なかったし,自分とおなじことを考えているひとも少なかった。それを「俺は,スゴイ。特権だ」みたいには思えず,どこかに自分とおなじひとがいないものかとキョロキョロしていました。

気づいたらあるころ,ネットにたくさんのひとの「ぼくはわたしはこう考える」が溢れていました。絶対量に伴って「ほうほう,わかるわかる」と強く頷いてしまうものも増えてきた。「われわれは内気だからあまり外でいわないけど,おなじことを考えているひともいるんだ。よかったなあ」とすっかり安心しましたし,「わたしも書いて,だれかをほうほう頷かせてやろう」と意欲が湧いてきています。

まだ何を書くかも,何を書かないかも決めていない。そんなものはあとで決まる。全体が要素を規定するのではなく,個々の連関が全体を規定する。

一応こころのなかには「こういう方向性でいこう」といったものや「こういったものは書かないようにしよう」というものもあります。本の話だけでなくて「ぼくはわたしはこう考える」も書きたいものがあります。

ただ,当面はあまり決めつけず,その瞬間に書こうと思ったネタをエントリにするというサイクルを回していきます。こういうのってさきに決めても予想に反するものですし,やっていくなかで分かることもありますし,やってみないと分からないことだらけです。

そういうわけで,みなさま,どうぞよろしくおねがいします。